昭和48年01月22日 夜の御理解
あの光昭が申しております通りですけれども、例えばあの、習字ぐらいなら、今のように、難しい字なら難しい字ほど、習字をするわけです。けれども、これが、信心ともなるとね、中々、そうは行けません。ですから問題は、本気で稽古をしようという気になるかならないかという事だと思うですね。本気で例えば習字の稽古をしようという事になると、出けるんです。
いやむしろそれを、大事にするというか、丁寧に何回も書いてみるという事になりましょう、難しい字でしたら。ですからこれが信心ともなると、それはお話を聞いて分かるんです。先日から頂くように、「我が物と思えば軽し傘の雪」なんです。これが自分のものになるんだ。これが自分の力になるんだと聞いてはおるけれども、実際は矢張り、早うそこから逃れたいというものがあるですね。
本気で稽古しようという気がないからです。やはり本気で稽古をしようという、おかげを頂かなければならんから、本気でお参りをしようというところまでぐらいは行きますよね。眠かっても、辛抱してでもお参りをしてくる、朝参りも。しるしいけれども、また夜参りもしてくる。けれども神様が本当に求め給う信心。または本気で求め給う修行、というものはですね。それはやはり辟易とする。
それは本気で稽古をしよう、その事を通して信心の稽古をしよう。それが私の例えその雪のように冷たいものであっても、重たくっても、「例え我が物と思えば軽し傘の雪」であり、我が物と思えば喜んでそれに取り組めるのですけれども。いかに本気で信心に取り組むと言うことが難しいかという事が分かります。どうぞ本気で信心の稽古をさせて下さい。こういう願いというか祈りが、だから大事だと言う事が分かりますね。
どうぞ。